いやはや4月に38歳になった。
こんな時代なのでなかなか会えない友達の近況をSNSで知る。
何かを変えるためにサバイブしてたり、何かを守るため何かを手放してたり、苦労してるからか白髪が増えてたりと、本来、自分の目で耳で知りたかった情報がスマホから入ってくる。
そりゃ、人との物理的距離が今までとは全く変わってしまったことによって誰だって何かしらの影響を受けている。
自分にしても加齢のせいでもあるけれど、頭髪にもヒゲにも鼻毛にも、白髪が頻繁に「こんにちは」って遊びにくる。
1年半前までとは変わってしまった日常。
アラフォーともなれば、置かれる環境や立場、外見や意識とか色んなものが目まぐるしく変化する。
若い頃に見たおっさん達の中身は分からないけど、今の自分の意識はあの頃のおっさんより確実に若い。
良いか悪いかは別として、確実に幼いという表現の方がしっくりくる。
権力や大人への反抗、枠の破壊欲求、ローカルルール。
全て若い頃の自分に必要だった訳で、自分を形成してきた要素であるけれど、アラフォーの自分に今現在どれ程重要なのかはわからない。
38歳といういい大人にとって、そんな意識を社会は求めていないだろう。
求めれらるのは数字。基本的にはね。
ただ確実な事は今も自分の中にはそういった意識が残ってて、時折思い出したかのように波がやってくる。
大人になれば色んな局面で色んな顔をしないといけないし、尖った所は隠さないといけない。
でもこれって悪いことばかりではないとも思ってる。
社会にはルールってもんがある。
「ルールを守ろう」なんて標語は腐るほど聞かされてきたけど、
ある人は「ルールは破るためにある」「ルールは破ってマナーは守れ」だなんて言う。
大人だし、社会のルールは守らないといけないし、守らなければ相応の処分を受ける。
若い頃のように中指立てても次のステップには進めないって事もわかる。
でも、絶対に失くしてはならないのは、ルールを疑うって事。
何かの秩序を守るため、ルールがあるんだからルールは必要だ。
では、そのルールは何のために?誰のために?決められているのかって事は絶対に考えてないといけない。
この時代、生きた情報は自分でキャッチしていくにあたり、盲目的な「右へならえ」は確実に搾取される。
コロナにおいても、オリンピックにおいても、疑う事は本当に自分を守る手段だ。
納得したらルールを守ればいいし、納得できないなら主張、選択だって出来る。
要は「自分で判断する権利」を捨てるなって事を言いたい。
ワクチンの有効性?安全性?
コロナの陽性率?重症化?
病床が足りない?こんなに病院があるのに?なんで?
疑えば、色々な事が見えてくる。
猜疑心と好奇心を両手に抱え、何が嘘なのか、何が真実なのかを見極める事はやめない。
そう、38歳になっても根本は変わらないし、変わりたくないって話でした。