2017年11月24日

GO WEST.

その後も僕は自分なりのペースは崩さず精力的に活動をした。
それでも自分たちのパーティには人が余り集まらなくて、次第に開催の間隔もあき
僕は自分の活動にプライオリティの重きを置いていった。

その時期は、プロモーション用に作っていたデモ音源を色々なパーティでばら撒いていた。
神戸・大阪・京都。

普段パーティには先輩たちと足を運び朝までワイワイするのが日常的だったけど、
自分が好きな音を流すパーティには一人で足を運び、オーガナイザーやDJに配りまくった。
自分のプロモーションは、みんながワイワイしている間に、ひっそりと周りには内密に行うのがやり方だったし
次にそのパーティに遊びに行った時、自分の曲がプレイされてたらホントうれしかったもんだ。

良いコメントも悪いコメントも沢山届いて自分自身反響に驚いたんだけど、
ある日、ネットに上がっているDJの音源を聴いている時に、
PCに一通のメールが届いた。

「送信元:OILWORKS」
そう、福岡のオイルワークスのボス OliveOilさん(以下、オリーブさん)からのメールだった。



あれはいつだったか、あるパーティに遊びに行った時の事。
クレジットにOilworksが記載されていた。
名前は印象的だったので前から知っていたが、実際どんな音を出す人なのか良く知らなくて、僕の目当ては別のDJだった。

その日のオリーブさんのプレイが始まってから、音圧でまずぶっ飛ばされた。
この人の出す音、すげーな。
トラックのセオリーとか細かい仕様とかは全然わからないけど
弦楽器のチョイスや旋律、ループの部分とか、凄く印象的でカッコいいトラックを作ってる人だと思った。
しかもVJ、弟のPopyOilさんとの融合が凄くて、ちょっと衝撃を受けた。
この時はオリーブさん達と話すきっかけもなかったんだけど、ほんと痺れた夜だった。

ある日の夜、それを思い出してOilworksのWEBへアクセスした。
サイトにアップされている音源、ビジュアルデザイン共々やっぱこの人たちカッコいいわと確信し、恐る恐るサイト内にある
「CONTACT US」ボタンをクリックした。

どうしても僕の音源を聴いて欲しかったのだ。
僕の音源に対して、意見が欲しかったのだ。

そしてそれから何日か何ヶ月か忘れたけど、少し経ってから先のメールが届いた訳である。
オリーブさんから貰ったメールは
「ここ数ヶ月で聴いた音源で一番よかったよ、いつか福岡で遊ぼうな」
という内容だった。

福岡という街の音楽シーンは、正直よく知らなかった。
Natural Nine NationRAMB CAMPっていうグループしか知らなかったと思う。
ただRAMB CAMPの音源は誰かに焼いてもらった事があって、
ちょっと神戸では見ない、地域の色を出したオリジナルなラップをしてるという事は知っていた。

先のメールから何度かやりとりをし、音源を送ったりしている内に、どんどん福岡に興味が沸いてきた僕はすぐに福岡行きのチケットを確保し福岡の街を知るため、単身親不孝へ向かった。

たぶんメールのレスを貰ってから2ヶ月くらい経っていた。


福岡の街の第一印象は、ただただデカイ。
大阪とも神戸とも違う、オリジナル。
ストリートには人が沢山で、神戸とは比べ物にならない位の規模だった。
観光ってわけではないけど、昼間の街を見たくて天神を歩いた。

神戸も含めどの街もそうだと思うけど、昼と夜の顔は全然違う。
歩いてる人も何もかも。

そんな時、一人の男が声を掛けてきた。


「すいません、ちょっといいですか」

建物や街を見回してた僕は、スっとその人の顔を見た。


…全然知らない男だった。

「私、福岡でモデル事務所のスカウトをやっている○○と申します」
「福岡で○○っていうTVがあるじゃないですか、そこに出てもらえませんか?それから雑誌とかのモデルに展開していきたいんですけど、芸能に興味ないっすか?」
「すいません、僕神戸から来てて、そのTV知らないんすけど」
「そうねんですね!是非今から事務所でお話出来ればと思うんですが~」
「僕、既にホ○プロに在籍してるけど、大丈夫ですか~」
「…わかりました、それはマズいっすね」

ただのスカウトマンだった。笑
なんでホリ○ロ在籍って言ったんだろう。。笑

その後、デモ音源をばら撒きに何店舗かのレコ屋を回ったのだが
どの店でも、オイルワークス関連は大きな扱いで 街を代表するアーティストなんだなと
再確認出来た。
神戸のレコ屋では、ここまでプッシュするのを余り見た事がない。
神戸って街は、正直あまり地元を盛り上げようって意識が見えない街で
シーンとレコ屋、ストリートとの密接関係はちょっと薄い。
それ故、福岡のストリートのシーンとの関係性は少し羨ましかった。



そして僕はオリーブさんに電話をしたのだった。

2017年11月16日

THA MASTA BLUSTA


そのイベントで好評だったのか、数日たってからオーガナイザーの方から連絡をもらった。
「次の11月にBigパーティを企画してるんやけど、出る?」って感じだったと思う。

正直、こないだのイベントで言いたい事いっちゃったし、相変わらずノルマあるし、、。
しかもBigパーティはチケット価格も超高くて、ノルマきついなあ、、、と思ってた。
その前にライブの印象とか教えて欲しかったし、良かったのか悪かったのか、反応はどうだったのか、そもそも見てないのか。
これって若手、同じアーティストをどういう風に見てるかよく分かった行動だった。
人間的な面かな、やっぱリスペクト出来ないなと思って断ろうと思ってた。

その時、「出てもらうゲストはM.O.S.A.Dなんだよね」 
僕は直感で「宜しくお願いします」って言ってた。
いや、だってTOKONA-X! トコナが出る!
しかもその他にDJ KENSAWも!西の証言!

ゲストはRYUZOANARCHYなどビッグな面子が揃っている。

僕はいつだったか日本語ラップをよくディグってる時期、さんぴんCAMPのビデオを擦り切れるまでみてた。
証言もそうだし、ギドラもブッダも超格好よかった。雷、KEMURIプロダクション。
色んなものを吸収してた。
でもオープニングかな?会場へ向かうヘッズ達の様子などを流しているシーンで掛かってた、DJ HAZUのトラックに興味津々だった。
そこからDJ HAZU関連の事をディグりはじめたけど、
あんまりインターネットも普及してないし、ライナーノーツのSpecialThanksから広げたりしてた。
そういう時期に知った、ILLMARIACHIだ。
どこかのレコ屋で買ったアナログが最初の出会いだ。
なんだ、このフロー。超オリジナル。唯一無二という言葉がピッタリだった。
さんぴんCAMPで映像にはなかったけど、トコナ18歳でさんぴんCAMPに出てたって知って、そこからトコナの虜だった。
その後のトコナの活躍はよくご存知だと思うので割愛するけど、何せ そのトコナと同じパーティである。

この時期の僕の好きな音楽とトコナ関連の音楽は全然融合出来なくて、
そのパーティでも浮いてしまうのは確実だった。

そして。



パーティの少し前、トコナはこの世を去った。
(来週22日はトコナの命日。もう13年経つ)

僕は何の面識もないし、何のつながりもない。ただ、このパーティだけは本当に楽しみだった。
オーガナイザーはパーティを開催するべきか悩んだと思う。でも開催する英断を下した。
それには当然ゲストもトコナ抜きで出演するって事を決断したからだ。
リハの段階で今まで感じた事の無い空気、誰も笑わないしかなり重たい。
いざイベントがスタートしても、客もどうやって楽しんだらいいのかわからない、
すごいカオスな状態だった。
楽しいのか悲しいのかよくわかんない空気だ。

僕も勝手ながら、心の中で追悼の意をもってライブに挑んだのを覚えてる。
正直、自分の言いたい事とかスタンスとか二の次で、ホントただの虚無感しかなかったし、自分が憧れたアーティストへの気持ちを言葉にしたただけの、一地方の一若手のフロントアクトライブ。

ライブ後、一人のラッパーが声をかけてくれた。
姫路の超怖そうなグループのLOWBLOWのフロントマンのMAX3さんだ。
見た目からしてM.O.S.A.Dのようなイカつさ。
「自分のライブ、めっちゃよかったわ。ちょっとシビれた」ってな事を言ってもらった。
普段、自分とは世界観の違うアーティストから、そんな事行ってもらってホントに嬉しかった。
それだけで出てよかったと思っている。


MOSADのライブもグッと来たな。
トコナはいないけど、そんな空気のパーティは中々経験できないし、あんな心境のアーティストに会う事も中々できない。
僕はいい経験が出来たと思っている。

でも、、ノルマは痛かった!
その日からオカズのない、白米だけの毎日が続いたよ。

2017年10月20日

その衝動が風となり落ち葉を舞い上がらせた

 
フロントアクトでの出演交渉の結果、当然若手なのでノルマ設定が科される。

当時の若手アーティストの苦悩の1つであるノルマについて、後輩のラッパー・神門がノルマ地獄という曲を作ってたが、ホントに苦しい。
1枚2000円のチケットを20枚とか30枚とかをノルマとし、客を呼び込む。
今の年齢で冷静に考えれば、客を持っていない、客を呼べるわけではない若手に時間を売っているのは当然だと思う。実績ないし。
けど、これはホントに深く当時の僕を悩ませたとこである。

ライブの持ち時間は10分。仮に1MC+1DJで20枚ノルマだと40000円でこの時間を買うのだ。
当時のイベントはだいたい22pm~5amが一般的で、リハなどを含めて約8時間。分にして480分。
神戸の箱はどんなに高くても一晩20万円以内だった。 
10分に換算するとだいたい4500円いかないくらいか。

まあイベントってのは、ゲストのギャラからドリンク保証、フライヤー印刷など様々な経費がかかるのだが、
少なく見積もっても10分で40000円は本当に若手には苦しい金額だ。
必ず、どこかで潤う人がいる事もわかっている。
それでも僕はまずは出る事に意味を見出していたので、フライヤーの片隅に小さく,ホント小さく記載された、
【FRONT ACT LIVE】という凄い疎外感のある括りでのライブに挑んだ。

フロントアクトは僕を含め3組くらい出てたと思う。
出番は3番目、この中では一番いい位置で出させていただいた。
オーガナイザーは僕の名前や、活動をしている事は知っているが、実際にライブは見た事がないそうで、
ただの未経験者って訳ではないので、この位置でと配慮してくれたらしい。

少しでも人が増えている時間が希望だけど、まぁ、何番目でもいい。

フロントアクト1組、そして2組が終わった。
正直、僕には何の印象にも残らなかった。
だって、イベントオーガナイザーやその取り巻きに影響を受けて、虎視眈々と出演を狙ってた若手一派だ。
当然、メインアクトと同じ雰囲気のライブをやるんだから、インパクトは何もなかった。

自分たちは、このイベントとは毛色が異なる事、もっとhiphopって色々なスタイルがあるんだよってこと。
これさえ表現出来ればいい。それだけで今日の意味があると思っていた。
そして、出番がきた。

ライブが始まるとき。
だいたいは、前のライブDJが繋ぎ用の曲をかけ、次のアクトがライブ準備を行い、整えば1曲目のトラックが流れライブが始まる。

でも、僕はいきなりMICを握る事はしなかった。
前のライブの雰囲気やライブDJの残していったトラックから、自分たちの曲に繋ぐのは正直気持ち悪い。
音楽的な流れもクソもない、単純な流れ作業とすら思えた。

そこで僕らは、神戸の尊敬するスケーターでありトラックメイカーのJNY THE WEEL(スケーターならFESN 43-26関連て言えばわかるはず)の12インチA面2曲目に収録されている、
PURPLE ALARMというインストを1曲丸々掛けた。時間にして4,5分位か。


先述したが、僕はここのオーディエンスは日本語ラップや、そのイベントのアクトやゲストこそがhiphopで、
それ以外には基本的に興味がないのか知らないのかは知らないが、話題になる事はなく音楽的視野は本当に狭いと感じていた。

この曲が神戸から出ている正真正銘、hiphopである事を、僕から提案した形だ。

当然客はザワつきはじめ状況を理解出来ずにいたと思う。そりゃライブがすぐに始まると思ってるのに、今までのアクトと少し雰囲気の違うラッパーがステージ袖に待機しているのに、
全然ライブが始まらない。このイベントじゃ、インスト4分って時間、超長い。
JNYくんのヴァイオリンがフロアで響き、かなりの異空間と、オーディエンスがステージを懐疑的な目で見る状況が整ったのを見計らい、僕は一気に1バース目を始めた。

僕は3曲キックした。
僕の曲は、プジョヘンザー、セイホーみたいなコール&レスポンスはないし、パーティSHITもない。
基本的に、怒りから出来上がった曲が多い。

1曲、2曲と勢いでこなし、最後の3曲目。
僕の相方DJ takeには、このインストをかけてって事だけ伝えてた。
実は3曲目は、ライムもフローも無い、ただビートにのせてオーディエンスへ問いかけた語りに近い即興の提言だった。
フリースタイルラップでもない、ただただ僕の感情を言葉にしただけ。

オーディエンスにしたら、なんだコイツは?って思うひと多かったと思う。
今でもしっかり覚えているけど、
僕はフロアに向けて、ちゃんと自分の目で、耳で音楽を聴けよ、パーティのノリだけで音楽語んなよ。
可能性は無限大だよ、くだらない損得勘定や先輩後輩の上下関係とかぶっ壊せ、って。

僕らは基本的にここにはいない、クラブはここだけじゃない、いい音楽は自分で探せって。

僕のライブは10分の予定だったけど、押してしまい20分近くやっちゃったと思う。
オーガナイザーさんには申し訳ない。
ライブ中、フロアから黄色い声も、掛け合いも無かったけど、ライブが終わったら、大きな歓声と拍手をもらった。
よくわかんないけど、僕の言いたい事や熱意だけは伝わったんだと。こんなhiphopもあるんだと。

「落葉って、ちょっとヤバイね」って。


2017年10月12日

Seen It.


先輩とのイベント共催となり、これまでの取り組み方やライブなどを思い返し、少しでも自分の存在やスタイルを表現しアピールしたいと思うようになり、
今までは内輪でワイワイしていただけのイベントだったが、フライヤーの作り方からストリートでのプロモーション、そして自分自身のトラック選びからと意識はかなり変わっていった。

十数名いたクルー全員が出演出来る訳でもないし、自分が拾ってきた共催イベントという事も踏まえ、これからを見据えてがんばろうとしている奴を僕らのイベント代表としてクレジットに加えた。
全員出れると思ってた人、何で俺らのイベント色を他のイベントに合わせないといけないのかと思う人、
当然、様々な意見が噴出したが、自分自身の思うよう貫き、結果それでよかったと思っている。
(最終的にはクルーは分解してしまったが。)


先輩と行動を共にし、少しづつだがストリートとの繋がりが増えいく。
そして、自分でフライヤーを蒔きに行く。
少し顔を覚えてもらったら、ショップやクラブで会うたびに
「あ!こないだの。あん時はどーも」 
これだけで楽しかった。

そしてイベントを迎え、当日はとことん打ちのめされた思い出が一番強い。
リハから音の1つ1つへのこだわり、DJのかける音圧の違い、照明との連動、客へのおもてなし。
全てにおいて完敗だったのは間違いない。
でも自分のライブは幾分好評で、先輩や先人、オーディエンスから沢山声をかけてもらった。
たくさん知らない人がテキーラを飲ませてくれた。
会場だったクラブPi:Zのボス、1102さんからも直接褒めてもらい、次のイベントへブッキングもしてくれた。
しかも会場にいた、関西アンダーグラウンドの雄、土俵オリジンのDJ WESSUNや、
ストリートでの存在感の凄かった、THE CROWNなど様々な友人やアーティストと出会っていき、
どんどんと活動範囲も広がっていく。

色々なパーティで共演し、色々な友人が出来ていく。これが繰り返された。



そんな時の神戸のhiphopシーンは、
OLDNEW CAFEやBeberのある象ビルで開催されるメインストリーム勢と
Pi:z,OTO-YAで開催されるアンダーグラウンド勢といった構図であった。
象ビルでは、バスケのユニを来て水泳キャップのようなドゥーラグを被り、アメ車で50cent/In Da Clubが掛かってた。
当然、客のギャルは可愛い娘も多く、華やかなイメージだ。

かたやPi:zなどで流れる音楽は90s hiphopを中心に、ミドルスクールやアブストラクトなど多彩で、魅力的だった。
チャラい感じとは正反対の、ストイックさ。そしてジャンル問わず音楽が好きって人が多かった。
TBHのBOSSのリリックで「好きな曲を教えてください、その曲の意味を教えてください」とあったが、凄い共感してたなー。
絶対、メインストリーム勢にはわからないだろう、ノリだけで楽しんでるんだろうと思ってた。
(これは当時の勝手な妄想です。てか音楽聴かない人も同じような格好してたし)



そんな時、知り合ったDJたち。
次第に同い年の面子が集まり、結束し、方向性が同じ同志と次のステップへ向かうため、
新たなクルーが出来た。【誠】である。
誠はとても変則的であった。ラッパーは自分だけ。あとはDJの集団(スタート時は1MC+5DJ)。
僕の中で誠は、ラップグループではなく、音楽集団という意識が強かったので、
フロントマンは自分ではないと思ってたけど、
DJ陣は自分のスタンスで取り組んで欲しいし、DJの、特に選曲はセンスだと思ってたので
可能な限りスポットを浴びせたくて、自分がフロントマン的役割を担っていた。
大阪・鶴の間・SoundChannnel・NOON,FLATt、京都WHOOPEEZとか純粋に音楽が好きな人たちが集まるクラブを見つけては
通い、踊り、次第に僕らはそういった人たちへ届けたい、躍らせたいと思っていた。
ジャンルじゃない、思想や姿勢、生き方の部分へのアプローチだった。

僕らの好きな音楽を流すイベントに共感してもらう方法。
一番手っ取り早い方法、僕がヤバイライブをして誠の名前を売っていくことだ。
そこで知り合う関係者やオーディエンスを自分たちのパーティへ取り込んでいく、
そして魅力を感じてもらう。 これが一番だ。

チャラ箱代表だった象ビルのBEBERで行われているイベントがある。
そのイベントは若手への影響力が割と合って、出演者は日本語ラップを主に聴いている人が多く、
オーディエンスは音楽を知らない人、音楽を一方向からしか見ずに知った顔をする人などが多かった印象だ。決して悪口ではないが。

そのイベントが国内ゲストを招き、そういった人たちへ知見を深めてもらう意味合いがあったのだろう。
そこへ、僕はアプローチを掛けた。
「フロントアクトでいいので出してくれ」と。

もう、待ったなしだ。僕はその場へ乗り込んでいった。

2017年9月21日

What's up old self.













高校も卒業し、より自由を得た専門学生時代。
中・高・専門と、この期間に得たカルチャーや衝撃は一生モノだなぁと今になって思うけど
当時は音楽にかなり貪欲で、
色々なパーティに顔を出し、カッコいい音楽を吸収し、その情報をもとにレコ屋へ。
人生で一番音楽にお金をつぎ込んだ。

その頃、高校時代のReggaeを一緒にやったダブリの先輩とリリックを書いてはインストに乗せ、
気晴らしにスケボーをする事が日課みたいなもんだった。
自然とダブリの先輩とユニットを組み、2MC1DJという構成になった。

そんな時、初めてのステージに立つ機会が与えられた。
ダブリの先輩が仲良しだった、当時バリバリ活動をしていた先輩がオーガナイズするパーティに出してくれるって話だった。
その先輩はすでに3MC1DJのユニットを組み、ライブの演出でVJを導入したりと、当時の僕には初めてのことを経験させてくれた、
いわば一番身近で学ぶことが多かったアーティストである。

で、話を戻すと初めてのライブが決まり、ダブリ先輩とのクオリティも上がっていき
高校時代の陽気なReggaeという音楽性が、よりスピリチュアルに、よりシンプルで、より深い黒い音楽へどんどんのめり込みユニットの色が固まっていった。
初めてのライブの事は正直あまり覚えていない。特に手ごたえがあった訳でもない。
でもとても楽しかったのはよく覚えている。

それからというものの、より活動的になるものだと思っていたけど、
自身の学業やバイト、ダブリ先輩の仕事の都合などもあり少しづつ疎遠になっていく。
でも僕は僕で、クラブには頻繁に通ってたし、ダブリ先輩に繋いでもらった人間関係がより深くなっていき
自分でパーティを開きたいと思うようになっていった。

ちょうどそんな時、学生時代の友人や、その繋がりから僕の周りには音楽をやりたいって志す人が多く
すぐに仲間内を集めてパーティを企画した。
いわばクルーみたいなもんで、10人近くが集まってた。

友人同士でラップユニットを組んでたり、DJチームを組んでたりと、
しょっちゅうDJの家でダベりながら、リリックを載せたり、スクラッチをしたり、夜は皆でイベントへ行く。
朝起きたら学校へ。より活発に動くようになった。
そこでの出会いは若さやフレッシュさで、今思うとすごいTHE 青春!みたいな空気だったと思う。

友人の繋がりから、既に活動していたBlank To Rhythmoという名のグループにも参加してもらい
初めてのパーティを開催した。
夜遊びデビューの大学生や、ずっと一緒に動いてた友人達も集まり、かなり盛況なパーティになった。
その後も2回ほど開いたが、ここでも少しづつ違和感が生まれていく。

当然10数人もいれば、取り組み方や音楽性、責任感などにズレが生じていく。
パーティの出演者も多種多様で、はっきり言ってイベントの色が無い、大学生の身内イベント感が丸出しだったのだ。

そんな時、初めて自分をステージにあげてくれた先輩が何年もオーガナイズするイベントと、共催しないか?と話をもちかけてきた。
先輩のやっているイベントは抜けがなく、音楽性も統一された、音好きの集まるすごく出来上がってたイベントだ。
イベントのクオリティには雲泥の差がある。
でも僕はクルーとの違和感はあるけど、みんなでチャンスをゲットしたい。僕らも少なからずレベルアップしたかったんだ。
恥を覚悟で受ける事を決めた。


つづく

2017年9月19日

Hello,old self











HIPHOPとの出会いは中学生の頃。
(厳密に言えばスチャの今夜はブギーバックやEASTEND×YURIだけど)
サッカー部の先輩から借りたCOOLIOのGangsta's Paradiceを聴かせて貰ったのが記憶の中で一番古い。
その後、洋楽オムニバスのMAXシリーズでFUGEESにハマッて以来、かなり意識しだしたと思う。













その後、高校生になり地元の駅前はスケートスポットとなっていて、
夜になるとBMXやダンス、スケーターなど若者カルチャーが集合し、色々な出会いがあった。
そこでスケボーを介して街のお兄さん達と知り合い、HIPHOPとの距離がぐっと近くなっていき、
初めてHIPHOPを【体感】したのは、ポートアイランドにあった、クラブJUNKだった。
ExpressionのVHSでみてたWORDSWINGAZ、神戸からは水面鏡とか、ラッパ我リヤとか雑誌でみてたアーティストが
一同に介したパーティ。衝撃だった。

それ以降、自分も活動したいといった思いが強くなっていき、
当時、HIPHOPと同じくらいReggaeも聞いていて、よくHighest MountainとかDancehall Rockとかにも遊びに行っていた。
その流れか、高校の同級生からReggaeのステージを文化祭でやろう!と声をかけてもらい、それがステージに立つ最初のきっかけだった。

僕の高校時代、それまでに他校の文化祭には結構遊びに行ったけど、基本的にはバンド及びダンスがメイン。
ターンテーブルを用い、ラップやDJをする文化は、この辺りではなかった。
校内に自作のフライヤーを貼りまくっては先生に叱られ、放課後はターンテーブルを持っている友人の家に入り浸り
リリックを書く事が日課になっていった。
初めてのステージは生徒のみならず先生にも好評で、卒業した翌年に文化祭のゲストで呼ばれた事もあった。笑

その経験を機に、音楽のステージを街に移していった。

つづく

2017年8月4日

ジャージスタイル以降、まだまだ続くカルチャー

小学校高学年になると子供カルチャーから大人のカルチャーに興味を持ち出す人が多い。

それまではイケてる男子小学生のユニフォームと言えば、
エッジの効いたお洒落なジャージで それこそ足の速い男子が女の子にモテるって所と密接にリンクしていた。
ただジャージとして、イケてるブランド・ダサいブランドっていう格付けはあった。
これだけは曲げたくない意見だが、SUPERSTARのジャージはイケてなかった事は確かだと思う。



(画像左:当時だとイケてる評価を得れそうなジャージ)
  (画像右:教職員の御用達SUPERSTAR)

その小学校生活前期から中期後半あたりまでは幅を効かせていたジャージスタイルからの脱却、
次のチョイスで以降の各々の立ち居地が決まったと個人的には思う。
その話はまた今度。

音楽への興味だって、はやけりゃ小学校中期。
子供っぽいものを部屋から排除しはじめ、CDコンポを設置したり、ウォークマンを持ったりしだす人もいる。
そして聴いてる音楽のだいたいは当時のヒットチャートソングだ。
(まれに親の影響で洋楽などを聴いてる超絶マイナーキャラもいたりするけど。)
ここで音楽の波に乗り遅れたら、以降高校生あたりまでイケてる音楽へ1テンポ乗り遅れ、各々の立ち居地が決まると個人的には思う。

そうやって準備を整え迎えたネクストステージ(中学生活)、当時の僕はアコースティックギターとベースに夢中だった。
それまで聴いていたヒットチャートポップスから、ROCKとPUNKに目覚める。
それまで乗っていた24段変速マウンテンバイクから、スケボーの板へ変わる。
それまで着ていたジャージから、古着のTシャツ・ヴィンテージジーンズなどへの興味が移った。

これらカルチャー情報をキャッチ出来るのは、高校生・大学生あたりの兄がいる友人が最先端だったと思う。
何せ10代~20代前半に流行っている、生の世間のカルチャー情報を先行して入手できるのだ。
これはチートみたいなもんで、いくらアンテナを張ってもPCすら各家庭になかった時代、当時の少年には限界がある。
そんな境遇の人が友人にいたお陰で、当時の自分はアンテナの張れた、時代の旬な情報をキャッチできる、割とイケてたタイプだったのではと思う。(自負だ)

中学生の頃、世間のヒットチャートはglobeや安室ちゃんなどのTKサウンドや、
GLAYやL'Arc~en~cielなどのV系サウンドが全盛期で
中には綺麗な化粧をし一見女性のようで、でも背がバカデカイ喧嘩の強そうなIZAMなんていう人もいた。
今となってはただのオッサンの女装だけど、当時は美人に見えた人も多かっただろう、そんな時代。



僕らは自称イケてるタイプだったので早々とヒットチャートを抜け出して、
今のアラフォーたちが全盛期だったHi-STANDARDに虜だった。
でもGLAYなどは良く聴いてたし、当時のJPOPのクオリティは素晴らしいかった。




僕は英語の授業はあんまり得意ではなかったけど、サタデーのアルファベット綴りはハイスタに教えてもらった事は確かだ。
友人たちとギター、ベース、ドラムでコピーもよくやったもんだ。
ハイスタからスケボーにどっぷりとハマっていったし、
自宅で唯一MTVが映るクラスメイトに頼み、AIR JAMだって録画してもらった。
その録画からウォークマンで持ってない曲を録音する超絶アナログ手法だ。

まあ、それくらい貪欲にアンテナをはってた時代で、その後高校生近づくと次第にHIPHOPへ興味が移っていった。
だから自分が高校生になって、ハイスタが世間的に爆発したMAKING THE ROADが発売された時、
どっちかっていうとキングギドラ/空からの力のほうが良く聴いていた。
自分の中ではハイスタは既に消化し、一歩遅れ気味のコンテンツだったのだと思う。

でも心のどこかにハイスタは必ずいたのは事実で、アルバムも買ってちゃんと聴いてたし
大人気ソールドアウトだった、MAKING THE ROADツアーの音漏れを聴きにチキンジョージにも行った。



その後、ハイスタは活動休止に入り僕の中では既に歩みを止めたバンドとしてiTunesでしか流れることはなかった。
もうブラックミュージックにどっぷりだったのだ。
(それからの僕の音楽的生活は以前に記した通り)

そんな僕も20代を駆け抜け、30代が見えてきたとき、東日本大震災が日本を襲った。
未曾有の大災害ではあったが、
それがきっかけでハイスタがまた歩みだした時は嬉しかった。
DVDだって買ったし15年ぶりくらいにベースを鳴らしはじめるきっかけをくれた。
でも東北や横浜、こないだの福岡などAIRJAMに参加するっていう気持ちは、僕の中では全くなかった。
中学生だった僕にも、今じゃ家族が出来て、簡単にはいけない。
むしろ行きたい!って気持ちすら沸いてなかったしTVモニター越しにみるハイスタで納得していた。

去年、INSTAGRAMでハイスタの16年ぶりシングル発売!って事で大いに騒がれた。
で、今年はNew ALBUMが出る。18年ぶり、しかもツアーも開催だ。
場所は、、大阪城ホール。

直感的に、これは行くしかないと思い速攻で先行予約にエントリーし、こないだ当選通知が来た。
新しいアルバムのツアー、まだ収録曲だって発表されてないしどんなツアーになるのか、
駄曲ばっかりのアルバムなら演奏の大半が退屈なんじゃないかと心配もある。

でも、中学生の頃の自分、そしてHIPHOPに興味が移ってても
音漏れを聴きにいける、実は一番ハイスタが好きだった時代の自分に
今年は、20年越くらいの念願の初めてハイスタライブに参戦出来るよって教えてあげたい。

ピザオブのTシャツ、実家にまだあるかなー。。

2017年6月6日

Yo、ワッツアップ、こんちわ、元気ですか。














石の上にも3年と言われるけど、
【1年】という単位が駆け抜けるスピード感は年々上がっていく。
思春期の1年、30代の1年。
両方経験したらスピード感が全く違う事にびっくりさせられる。
スピードのせいにせず、コツコツと何かを頑張れる人間に勝るもんは何もないなと、年を重ねる毎に感じてる。
もう6月。

少し昔を思い出してみる。
干支がひとまわりする12年前。

当時22歳、親元を離れ、神戸・陸路の玄関口で一人で生計を立て始めた。
それはそれは毎日が刺激で溢れていた。
夜な夜なクラブで踊りあかし、乾杯し、泥酔し、二日酔いで通勤列車に飛び乗るも昼間は仕事に身は入らず、
仕事が終わると溜めてたDVDや書籍、雑誌を読みまくり、ご飯を食べたらまたクラブへ。
この生活は学生時代から変わらずで、学校では、社会では教えてくれない事を沢山見ること、知ることが出来たとても刺激的な毎日だ。

クラブでは、レコ屋でよく会う名前もよく知らない後輩、いつも女をはべらかしてるだけの先輩、
絶叫と虚無感を体言するオールドスクーラー。
中身なんてない唯の体育会系の付き合いや、他ジャンルのDJに教えてもらうレコード。
イケテル男子を漁っている自称日本語ラップ通の女、ぶっ飛んで失禁しているギリギリアウトな人。
色んな人と乾杯して、酒の話・女の話・街の話・音楽の話。いろーんな情報をゲットできた。

こんな刺激的な場所は、昼間の世界では見たことがない。
それは34歳になった今でも見つからない。

あんなに鼓膜とソウルを振るわせた情報ツールが、いつの間にか端末越しに見る活字がメインとなった。

人は年をとる。環境が変わる。生活が変わる。
昔のように「Yo、ワッツアップ」って簡単には会えない。
あの時よりも金はあっても時間が持てない。
でもそれは言い訳でしかないんだって、本当はわかっている。

じゃあ、どうするか。
やりたい事をやるのが一番だよ。もちろん出来る範囲でね。
アンチロックシステム?社畜?ファッキンサラリーマン?なんだそりゃ。
決められた線路を進む人生?ブラック企業?なんじゃそりゃ。

ちがうちがう、その線路に、その列車に飛び乗ったのは自分なんすよ。

ソーシャルな世界で垣間見える華やかな世界も、裏を返せば寂しい人の幻想であったりもする。
目の前の今日、そう今の生活が、ここまで自分で選んできた道筋の通過点であり
線路なんてこの先自分で幾らでも作れるんすよ。

各駅停車でも特急でも、目指す方向があれば、何かにチャレンジしてれば
人生は楽しいぞ!

och.